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【みんな生きている】斎藤博子さん

在日朝鮮人の帰還事業で北朝鮮に渡り、2001年に脱北した福井県鯖江市出身の女性が、今も残る日本人妻やその子どもたちの帰国実現を求めています。
安倍政権発足で拉致問題の進展に期待が高まり、遺骨収集事業にも光が当たる中、日本人妻問題は置き去りの感があります。
この女性は「高齢化や食糧事情の悪さで、生存している日本人は少なくなっている」と早期の解決を訴えています。
女性の名前は斎藤博子さん(71歳)=北朝鮮名・金博順(キム・バッスン)。
20歳だった1961年6月、在日朝鮮人の夫や当時1歳の長女ら11人で北朝鮮に渡りました。一行の中には義姉や姪、後に義弟となる日本人3人も含まれていました。
北朝鮮では、中国国境に接する北部の両江道(リャンガンド)の恵山(ヘサン)で暮らしました。
恵山では1992年に食糧の配給がなくなり、住民の生活が苦しくなって餓死者が急増したといいます。
渡航後、5人の子に恵まれましたが、三女は1990年代後半に病気と飢えで死亡。
「眼鏡工場の社長」(斎藤さん)にまでなった夫は1994年に病死しました。
長女は中国との密輸の罪で捕まり、2000年頃に日本の刑務所に当たる「教化所」で獄死しました。
帰還事業で北朝鮮に渡った日本人の調査と脱北支援を行う「北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会」(守る会)によりますと、次男と長男も一昨年と昨年、相次いで亡くなり、次女や孫たちは強い監視下と貧困の中で生活しているといいます。
6人の子どものうち今も生存するのは、2004年に脱北し日本で暮らす四女と、北朝鮮にいる次女だけとなりました。
斎藤さんは、中国人ブローカーに「日本で働いて北朝鮮に送金すれば、子どもたちの生活がよくなる」と誘われ、2001年8月に脱北。2003年から守る会の活動に参加し、翌年から氏名も公表しています。
メディアに登場して自らの体験を話し、他の日本人妻たち日本人や、現地で生まれた「2世」「3世」の早期帰国の実現を訴えています。
2009年3月には中国人ブローカーの家族を自らの家族と偽って入国させたとして逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の判決を受けました。
現在、大阪府内のアパートに一人で暮らす斎藤さんは
「日本人妻は、自らの意思で行ったと言われるが、多くの人が家族を捨てられず、『地上の楽園』という触れ込みにだまされて渡航した。日・朝政府間協議が再開された場合、拉致被害者や日本人妻という区別を付けず、北朝鮮にいる日本人やその家族全員の帰国を訴えてほしい」
と話しています。



※2009年3月20日にオーストラリアのメルボルンで開催された「第9回北朝鮮人権・難民国際会議」では、帰還船で北朝鮮に渡った後、再び日本へ脱出した在日朝鮮人問題が公式に取り上げられた。
オーストラリア国立大学のモーリス・スズキ教授は

「1990年代半ば頃から200人以上の在日朝鮮人が、北朝鮮当局の許可無しに国境を越えて日本に定住している。彼らはかつて帰還船で北朝鮮に渡った人たちだ」

と語った。
しかし、

「国連難民高等弁務官室(UNHCR)の統計では、1995年~2007年に北朝鮮から2万人が日本に亡命を申請したが、全て拒否された」

と言う。
日本国内の脱北難民問題は、1959年に日本と北朝鮮赤十字社在日朝鮮人の大規模な移住について協定を結んだことから始まった。
1959年~1984年までの間に在日朝鮮人93,340人が帰還船で北朝鮮に渡ったが、予想とは異なり故国であるはずの北朝鮮でまともな待遇を受けられず、日本よりもひどい差別を受けて強制収容所に送られた者もいた。
その後、帰還船で北朝鮮に渡った在日朝鮮人の一部は他の脱北難民と同じように中・朝国境を通じて北朝鮮を脱出し、第三国を経て縁故のある日本へ戻るケースが出て来た。日本政府は正式な難民手続きを経ずに「特別滞留許可」という形で彼らを受け入れた。
スズキ教授によると

「その後、韓国政府と在日本大韓民国民団(民団)は『帰還難民』たちが必要な生活必需品を購入出来るよう支援金1,000ドル(約9万5千円)を与え、就職活動も支援している」

と言う。

※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
脱北者Aさん。脱北者手記集より)