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【みんな生きている】金新朝編

《「あれは金日成の命令」元北朝鮮武装スパイが語る真実》

金日成(キム・イルソン)は当時、韓国の経済発展が朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の功績だということを認めていた。時間が過ぎると韓国の共産化が難しくなると判断し、1日も早く殺害しようとした」
1968年1月、「朴正熙(パク・チョンヒ)の首を取りに来た」と叫んだ北朝鮮の元武装スパイ、金新朝(キム・シンジョ)氏。金氏も高齢となったが、今なお牧師として活動している。金氏は当時、韓国に潜入した北朝鮮武力部総偵察局124軍の隊員31人のうち、唯一韓国軍によって生け捕りとなった人物だ。
金氏は1月11日、京畿道南揚州のキリスト教施設で『朝鮮日報』紙のインタビューに応じ

「マスコミに出る度に、左翼と思われる人物から“生意気なことをせず静かにしていろ”といった電話を受ける」
「私のせいで苦しんできた多くの人たちに謝罪し、また支援してくれた人たちに報いるためにも、韓国の安全保障にプラスになるよう祈りながら生きていきたい」

と語った。
故・金日成主席は1972年5月に北朝鮮を訪問した韓国中央情報部(現・国家情報院)の李厚洛(イ・フラク)部長(当時)に「(大統領府襲撃未遂事件〈1・21事件〉は)朴正熙大統領に本当に申し訳ないと思っている。私も知らなかった。(北朝鮮の)妄動分子がやらかしたこと」等と発言していた。
この発言について金氏は

「真っ赤なウソだ。北朝鮮アメリカ大使館、アメリカ第8軍基地、国防部(省に相当)、陸軍本部、西大門刑務所等をまず占領する計画を立てていた。金日成主席は『何よりも朴正熙から早く殺せ』と命令し、当時北朝鮮のエリート特殊部隊員31人を選んで直ちに派遣した」

と述べた。
金氏を含む武装グループは1968年1月21日深夜、大統領府からおよそ300m離れた場所で鍾路警察署の崔圭植(チェ・ギュシク)署長たちに発見され、銃撃戦となった。
金氏は

「当時、首都警備司令部30大隊長全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領だったが、銃撃戦で部隊が崩壊しバラバラになった」

と語った。
金氏は自らが生け捕りされる瞬間の状況について

「手りゅう弾の安全装置を外したが不発だったため捕まったと伝えられているが、実際は抵抗せず素直に手を上げた」
「あのときは26歳だったが、金日成のために死ぬのは無意味だと思っていた」

と語った。
金氏は転向後、1970年4月から社会生活を始めた。
金氏は

「当時の韓国は、都市も農村も北朝鮮よりはるかに貧しく感じた。しかし1970年にセマウル運動が始まり、京釜高速道路も建設され、韓国が非常に早いペースで発展する様子を目の当たりにした。金日成が朴大統領を1日も早く殺そうとした理由が分かったような気がした」

等と語った。
金氏は2010年10月、故ファン・ジャンヨプ元朝労働党書記の葬儀会場で朴槿恵(パク・クンヘ)次期大統領に会った。
金氏は

「あのときは謝罪する間もなく朴氏が近づいて来て“この場で会えて嬉しく思います。講義をしていると聞きました”と話した。自分の父親を殺そうとした人間なのに、いやな顔一つせず、とてもありがたかった」

と話した。
金氏はさらに

「私が生き残っていなければ、北朝鮮は大統領府襲撃未遂事件について最後までシラを切っただろう。哨戒艦・天安爆沈を捏造などと言い張るのは、北朝鮮の常套手段だ」

と語った。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
脱北者Aさん。脱北者手記集より)