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【みんな生きている】北朝鮮ゲリラ編

北朝鮮ゲリラによる1968年の「南北危機」》

1968年1月10日早朝、北朝鮮黄海北道沙里院の人民委員会に怪しい人物31人が現れた。建物の周辺は、武装した労農赤衛隊民兵)や社会安全員(警察官)たち数十人で守られていた。
怪しい一行は銃撃を浴びせ、建物の1階と2階を廃虚同然にしてしまった。12人が死亡し、約40人が負傷した。この一行はトラックに乗り、風のように姿を消した。陽が昇ると、韓国の特殊部隊の仕業だという噂が瞬く間に広がった。
この一行は、韓国に潜入してゲリラ戦を展開するため北朝鮮が養成した124部隊の隊員約2,400人の中から選ばれた最精鋭だった。韓国大統領府(青瓦台)襲撃を控え、建物の作りが似ている人民委員会を標的に、実戦訓練をしたのだ。隊員は、厳しい訓練を積んだ殺人兵器だった。重さ40キロの装備をかついだまま、1時間に12キロの距離を走る訓練、墓を掘って中に入り、土葬された遺体と共に隠れる訓練、舌をかんで自決する訓練…。
1968年1月21日日曜日、午後10時15分。
韓国大統領府から300m離れた景福高校前の道で銃声が響いた。北朝鮮のゲリラを検問で捕捉した崔圭植(チェ・ギュシク)鍾路警察署長が、胸に銃弾を浴びて倒れた。すぐさま出動した首都警備司令部の将兵とゲリラの間で銃撃戦が繰り広げられた。ゲリラは民間人が乗った路線バスにも手りゅう弾を投げ込んだ。照明弾で空が昼間のように明るくなった。市民たちは、銃声が激しく鳴り響くのを聞いて布団をかぶった。
激戦の末、ゲリラ29人を射殺し、1人を捕らえ、1人は北朝鮮に逃走した。韓国側では民間人5人を含む30人が死亡し、約50人が負傷した。
1968年は、6・25(朝鮮戦争)後に韓半島朝鮮半島)で戦争の危険が最も高まった年だった。「大統領府襲撃未遂事件(1・21事件)」から二日後、米軍の情報収集艦「プエブロ」が北朝鮮軍に拿捕され、米軍の空母が日本海に出動した。10月には、124部隊の武装ゲリラ120人が蔚珍・三陟に侵入し、住民を虐殺した。
あれから45年が過ぎた今、大統領府襲撃未遂事件のことを覚えている韓国国民は多くない。北朝鮮に対する報復のため訓練を積んでいた実尾島の特殊部隊員を、反共政権の犠牲者として描いた映画はあっても、大統領府襲撃未遂事件にスポットライトを当てた映画はない。
哨戒艦「天安」爆沈、延坪島砲撃といった事件が起きても、北朝鮮を非難すると逆に「古いタイプの人間」扱いされる世の中だ。大統領府襲撃未遂事件を経験した世代も、その恐ろしい記憶は歳月と共に風化し、色褪せた。若い世代は、そんな事件があったかどうかも知らない。これまで韓国社会の主導勢力が陰に陽に、国の運命が危機に直面していたあの瞬間を振り返らせまいと尽力したためだろう。
危機から学べない国民は、いつか再び危機を迎えることになる。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
脱北者Aさん。脱北者手記集より)