もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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いずみ江戸日記/国姓爺のはなし

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ああ、いい匂いがすらァ。
そいつはあいなめの煮付けですかい?いずみサン。



「大明攻め候わば…」
いずみサン、そんな手紙どこで手に入れなすった?
そんな手紙持ってちゃいけねえ!
そいつはいずみサンのためにならねえ手紙だ。
さ、悪いこたァ言わねえ、さっさと火にくべちまいなせえ。



ったく、何でまたそんな手紙手に入れたんだか。
そんなアブねえ手紙、持ってたらためにならねえって聡明ないずみサンならわかりそうなモンだけどな。
で、そんなアブねえ手紙持って来るってこたァ、その手紙の話をしてくれろってことでしょうよ。
しょうがねえなあ。
じゃ、ちょいとお耳を拝借しますぜ、いずみサン。



その手紙はないずみサン、京都所司代の板倉周防守様(重宗)が甥っ子の板倉内膳正様(重矩)に宛てて書いたモンだ。
いずみサン、その手紙にゃあ「大明攻め候わば」のあとに「斬り取り勝手」って続いてんだろ?そいつはな、当時幕府ん中でもういっぺん唐入りやらかそうって声が大きかったのよ。
何でもういっぺん唐入りなんかをって?
ああ、いずみサンが疑問に思うのも無理のねえ話だ。その唐入りの話を持って来たのが、ありゃあ確か平戸で生まれた明人と日本人の「はーふ」の兄ちゃんで、名前は確か鄭成功とかっていったな。そいつが長崎奉行に援軍よこしてくれろって手紙書いてな、その手紙が幕府に届いたってえワケよ。
唐入りなんざいずみサンから見りゃあ到底理解の出来ねえことなんだろうが、こン時の幕府は真剣に考えててな。
いずみサン、関ヶ原から大坂の陣まで権現様も秀忠公も大名たっくさん取り潰した。そしたらな、全国に浪人が溢れかえっちまった。浪人って言ったって武士は武士だ。刀持ってるからな。食い詰めたら押し込み盗っ人何でもやらあな。そんなんですっかり治安が悪くなっちまってな。いずみサンの時代で言やあ「体感治安」って言うんだろうけど、そいつが最悪だった。
そんなトコに、鄭成功の手紙が届いた。鄭成功ってえのは清国に滅ぼされた明国を再興しようと挙兵した兄ちゃんでな、苗字の「鄭」ってえのが明の皇帝の苗字をもらったもんだから「国姓爺」って呼ばれたんだ。「国姓爺」は「こくせんや」って読むんだ。いずみサン、覚えといてくんな。
その鄭成功の手紙読んだ家光公が「大明攻めたら、彼の地斬り取り勝手」って言い出したから幕府の連中みんなその気になっちまった。で、家光公が京都所司代大坂城代に出兵の準備を命じたんで板倉様が興奮気味にその手紙を書いたってえワケだ。
いずみサン、その「斬り取り勝手」ってえのがその手紙のミソだ。何せ浪人にゃ再仕官(再就職)のクチが無えんだ。そしたらあとは食い詰めて悪さすんのは誰にでもわかる。そこで浪人贔屓の紀州様(徳川頼宣)が「鄭成功の申し出通り唐入りして、彼の地を斬り取り勝手にすりゃあいいじゃねえか」って言い出した。ま、唐入りしてそこの土地斬り取り勝手にすりゃあ清国やっつけるんだから鄭成功の顔も立つし、浪人の問題もカタが付く。紀州様も家光公も一石二鳥だとお考えなすった。
だがないずみサン、思い出してもらいてえんだが、豊太閤(秀吉)の唐入りンときの後始末がえれえ大変でな。太閤は唐入りやらせるだけやらせててめえはいくさの最中にぽっくりだ。その後の朝鮮国・明国との講和の交渉がえれえ大変だった。権現様も他の豊臣家の連中も、本当に骨の折れる役目だった。
そんなモンだから、紀州様や家光公が大乗り気でも幕府ん中にゃあ「唐入りやらせちゃなんねえ」って方々もいたのよ。その筆頭が井伊掃部頭様(直孝)だ。
掃部頭様はな、紀州様に直接「唐入りの儀、幕府は請け合いかねる」ってきっぱり断った。断ったんだが、紀州様にも御三家のメンツがある。「上様もご同意の唐入りじゃ。四の五の言わずに支度せえ」ってやり返した。
そしたらないずみサン、掃部頭様は紀州様をギロッと睨んでもう一度「唐入りの儀、請け合いかねる」って言ったんだ。そりゃ、幕府で一番の「武闘派」が凄むんだ。紀州様だって言い返せねえ。掃部頭様は続けて「血で浪人どもの食い扶持を作るような真似はもってのほか」って言いなすった。
ま、幕府一の「武闘派」が反対したんだ。これで唐入りの話は沙汰止み、鄭成功には援軍お断りの返書を出した。
援軍は断ったが、鄭成功の忠義の心はあとあとになって近松のオッサンが「国姓爺合戦」ってえ人形浄瑠璃で語り継いだ。忠臣は異国にもいるもんなんだなあ。



あいなめの煮付けなら何杯でもメシ食えるぜ。
いずみサン、また。