もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様番外編/松平忠輝

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今日はな、どじょうだ。
どじょう鍋に辛口の冷やをキュッとやるのよ。
ああ、煮えて来たぜ。い~い匂いがしやがる。



何だオイ、麻由坊じゃねえか。
おめえ、徳利なんか持って何しに来やがった?
あん?
剣菱持って来ただ?
どうせまたアレだろ?
剣菱持って来たからトンチキお大名の話してくれろって言うんだろ?
ああいいぜ。剣菱持って来られたんじゃ嫌とは言えねえ。
で、今日はどこのトンチキお大名の話をすりゃあいいんだ?

何?
上総介様(松平忠輝)だ?
麻由坊、おめえは何を口にしてるのかがわかってねえんだろう。あんなお方の話なんざしたら奉行所しょっ引かれちまうだろ。ったく、剣菱なんざ持って来るから何事かと思えば、おめえはホントにロクなこと言わねえガキだ。
まあでも一杯飲んじまったしな、しょっ引かれるときゃあおめえも道連れにすりゃあいいか。
上総介様は生まれつき権現様から嫌われてたってえことになっちゃいるが、そいつは違うぜ麻由坊。
本当に嫌ってたら、さっさとよそに養子に出さあな。それを養子に出さずに越後高田75万石までお与えなすった。本当に嫌ってたらこんな大封与えやしねえ。
権現様が上総介様を改易にした本当の理由はな、上総介様が豊臣贔屓だったからよ。そこはアレだ麻由坊、越前様(結城秀康)とおんなじだァな。
ただ、何で豊臣贔屓だったかってトコで越前様と上総介様には違いがあった。越前様は豊臣家に養子に出されてたモンだから、秀頼公に親しみを感じてた。血のつながらねえ兄弟みてえなモンだからな。そこいくと上総介様は秀頼公への親しみじゃ無くて、大坂城への親しみだった。
麻由坊よ、オレたちの時代はな、口が裂けても「大坂城が欲しい、大坂城くれろ」なんて言っちゃあいけねえ時代だった。越前宰相様(松平忠直)も駿河様(徳川忠長)も「大坂城くれろ」って言ったばっかりにお取り潰しだ。上総介様も大坂城を欲しがった。そいつはなんねえって、陸奥様(伊達政宗)も家老の大久保石見守(長安)も言ってたんだがな。我慢が利かなかった。
上総介様は権現様にねだっちまった、「大坂城くれろ」ってな。権現様はここで腹を決めたのよ。「高田75万石はお取り潰しだ」ってな。
よく上総介様お取り潰しの理由に秀忠公の旗本を斬っただとか、大坂の陣に遅参しただとか、禁裏に行く日に川干ししてただとか言われるが、みんな後から取って付けた理由だぜ。
ホントのところは大坂城よ。大坂城を欲しがるとこうなるってえのを見せしめにするために権現様は高田75万石をお取り潰しにしなすった。
高田藩お取り潰しのあと、上総介様は伊勢朝熊、飛騨高山と配所を転々としてな、そンで寛永3年に諏訪の高島城に預けられた。諏訪家じゃ高島城に南の丸ってえ離れを新築してな、そこに上総介様を預かった。
57年間だ、麻由坊。上総介様は天和3年に92歳で死ぬまで57年間高島城南の丸に閉じ込められた。天和3年っていやあ、もう世の中は綱吉公の御代だ。先に何の望みも無え暮らしを57年間続けたんだ。まあでもアレだ麻由坊、同じ大坂城をねだった駿河様は冬の寒い高崎でてめえの喉を太刀でブスリとやらなきゃいけなかったのに比べりゃあ、ちったあましだったんじゃねえのかなってな。
上総介様は高島城では墨絵やら書やらを嗜んでな。若かりし頃に秀忠公の旗本を斬り捨てて「大坂城を寄越せ」ってギラギラしてたあの上総介様とは別人になっちまった。
高島城の南の丸にはな、あとであの吉良左兵衛(吉良義周)もお預けになるんだがな、そいつはまた今度話してやる。
オレたちの時代に92歳まで生きるなんて、そのこと自体がえれえことなんだがな、その人生がしあわせだったかどうかとなりゃあ、そいつはまた別の話だ。
上総介様は「罪人・松平忠輝」として死んだが、決して「謀反人・松平忠輝」じゃなかった。そいつが唯一、上総介様の救いだったんじゃねえのかなって思うぜ。



さ、麻由坊、そこまで送ってってやる。寄り道しねえでまっつぐ帰えるんだぞ。
剣菱、ウマかったぜ。
麻由坊、またな。