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岡山城

【2013年3月1日】

池田伊予守斉敏。
元の名を、島津久寧という。
薩摩鹿児島藩主・島津斉興の子で、母親は因幡鳥取藩主・池田治道の娘・周子だ。
斉興と周子の間にはもう一人、斉敏の兄にあたる男子が生まれている。その子が、のちに薩摩藩の名君と呼ばれる島津斉彬である。



島津久寧が池田斉敏になるきっかけとなったのが文政9年だった。
この年の8月13日、備前岡山藩嗣子・池田斉成が18歳で病死した。
そのため、藩の無嗣収公(御家断絶)を恐れた岡山藩池田家が鳥取藩と薩摩藩に相談して久寧の養子縁組を決めた。
岡山藩主・池田斉政には側室・磯野との間に生まれた金子(かねこ)がいて、久寧は金子の婿養子ということで縁組が成立した。
こうして島津久寧は岡山藩池田家の婿養子となり、名をば池田斉敏に改めた。



岡山藩池田家では斉敏が養子に入る前からおかしな事態が続いていた。
まず、文政2年2月18日に斉政の嫡男・斉輝が23歳で病死した。藩祖・池田光政の再来とまでいわれ、家中の人望が厚かったが、父親に先立って他界した。
斉輝には本之丞という一粒種がいたので斉政は本之丞を嗣子としたが、本之丞もまた、父・斉輝の死の翌年、嫡孫承祖すること無くわずか5歳で病死した。
仕方無く斉政は甥の斉成を養子としたが、やはり自分より先立って病死したため斉敏との養子縁組となった。

斉敏は岡山藩に異常事態が続いていることを知ると、



この負の連鎖を断ち切らねばならない



と思った。



負の連鎖の背景には藩主・斉政の異母兄・政恭の存在があった。
池田政恭は先代・池田治政と側室・柏尾の間にできた庶長子だが、治政は政恭を認知しなかった。認知しない以上、政恭は公式には庶長子ですら無い。政恭は表向きは傍流の子として扱われ、分家の備中生坂1万5千石を相続した。

庶長子としてさえ扱われなかった政恭の恨み・憎しみ。
それは本藩の嗣子連続病死となって現れた。
さすがに弟・斉政は本藩藩主なので手出し出来ないが、斉輝・本之丞・斉成と7年間に次々と葬った。
この負の連鎖が止まるのは斉敏が文政9年10月に斉政の養子になったとき。政恭は翌文政10年7月30日に死亡した。



負の連鎖を完全に断ち切るため、斉敏は金子との子供を諦めた。
早くから親戚である豊前中津藩奥平家に根回しし、藩主・奥平昌高の子・昌朝を養子にもらっている。



この奥平昌朝がのちの池田慶政だ。