もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

松山城

【2012年2月27日】

愛媛県松山市谷東町。
ここに、一人の元大名の墓がある。

その元大名、名をば



松平能登守定政



という。

何故、「元」大名なのか?
それは彼が取り潰されたのちに松山にやって来たからだ。

慶安4年7月18日。
伊予松山藩主・松山定行は首席老中・松平信綱より



「松平能登守、発狂乱心により所領収公。身柄は松山藩にお預けとする」



と言い渡された。
定行は「発狂乱心とは、困った弟だ」と思いながらも、「切腹を免れて良かった」とホッとした。



松平定政が「発狂乱心」と判断された行動は、突然の剃髪だった。

7月10日。
松平定政は嫡男・定知とともに突然剃髪。
剃髪後、僧衣に二本差しという異形で



「松平能登入道に物給え、物給え」と托鉢を始めたのだ。



江戸の町は大騒ぎになった。
三河刈谷2万石の藩主が頭を剃って物乞いをしているのだ。

定政はこの挙に出る前の7月9日、大老職・井伊直孝宛てに手紙を書いている。
手紙には「刈谷城と2万石を返上するから、浪人を救済してくれ」と書かれていた。

「浪人を救済」
定政は幕府の浪人(失業者)対策に強い不満を持っていた。
幕府の浪人対策は大老職・酒井忠勝



「浪人など、ゴミ同然。あるだけ迷惑」



という発言が基調になっている。
再仕官(再就職)を禁じ、飢えて死ぬのを待つ政策だった。
当然、浪人たちは反発した。「オレたちはゴミじゃねえぞ」と。
定政もまた、酒井忠勝の政策に反発した。忠勝の政策では何も解決しないからだ。

定政は井伊直孝に宛てた手紙に一つ細工をしている。
それは、手紙の宛名に大老職・老中職の連中の名前が書かれているのだが、酒井忠勝の名前だけ書かなかったのだ。

書き忘れでは無い。
わざと書かなかったのだ。
わざと書かないことで「今日の浪人対策の誤りの責任は酒井讃岐守にある」と遠回しに示唆したのだ。
のちに慶安事変が起こり、幕府は浪人対策を見直すのだが、慶安事変の主犯・由比正雪酒井忠勝を名指しで批判し、松平定政は名指ししないことで忠勝を批判したのだ。



松平定行は定政と3人の息子を松山に連れて帰った。
定行は弟のために



吟松庵



という隠居所を建設した。
定政はこの吟松安で穏やかな晩年を過ごし、晩年は不伯と号して茶の湯を嗜んだ。



寛文12年11月24日、松平定政は62歳で死去した。