もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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鶴ヶ城公園(会津若松城)

【2012年3月15日】

会津藩三代藩主・保科正容は正室・竹姫の死後、二人の側室を寵愛した。
一人は横山常定の娘・お祐で、もう一人は榎本又兵衛の娘・おもんだ。
二人とも浪人の娘で境遇は似たもの同士だった。そして二人は正容を寵愛を独占するために争った。

側室が君主の寵愛を得ようとするとき、一番手っ取り早いのは男子を生むことだ。
お祐、おもんの二人は妊娠競争となった。
まずおもんが元禄9年4月10日に正邦を生んだ。しかし、お祐も負けずに元禄10年に正甫を生む。



事件は、元禄10年、お祐が正甫を生む前に発生した。
この年、おもんは閨で正容を脅迫するというとんでもない行動に出たのだ。
正容は長男・正邦を生んだおもんよりもまだ妊娠中のお祐を寵愛した。

理由はあった。
おもんはあくまで榎本一族の栄達のために正邦を生んだ。なので、そこに愛情は欠片も無い。その愛情の無さが剥き出しなのだから正容も引いてしまう。
一方で、お祐には人望があり、藩の用人である杉本源五右衛門・牧原只右衛門の二人が味方した。

寵愛を得られないことに腹を立てたおもんは、刃物を抜いて正容の眼前で自害しようとした。藩主を脅迫したのだ。
正容は「おもんは発狂乱心」と判断して会津若松に幽閉処分とした。
おもんはこのとき二人目を妊娠していたが、正容は問答無用でおもんを会津行きにした。

おもんはお祐及び杉本、牧原両用人を深く恨んだ。
おもんだけではない。おもん幽閉の5年後、おもんの父・又兵衛と兄・庄左衛門が脱藩する。
さらには大奥に仕えていたおもんの従姉妹・おりんが会津藩重臣・簗瀬三左衛門宛てに



「従姉妹の不始末が原因とはいえ、幽閉が16年にも及ぶとはあまりに酷いではありませんか。もし、幽閉を解いて下されないのであれば、この件家宣公の御耳に入れまする」



と、手紙を書いた。
完全な脅しだ。

さすがにこの脅しは効いた。
正徳3年閏5月、おもんは幽閉を解かれた。
また、脱藩した又兵衛と庄左衛門も罪を許された。
そして享保元年3月、おもんは兄・庄左衛門に引き取られ心穏やかに余生を過ごした。



その後、享保12年3月23日に宿敵・お祐の生んだ正甫が病没した。
結局、正邦も正甫も正容よりも先立ってこの世を去ったため、塩見行重の娘・伊知の生んだ容貞が会津藩四代藩主となった。
おもんにとっても、お祐にとっても、皮肉な結果だったと言う他無い。