もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

小城公園(小城城)

【2012年4月5日】

小城藩鍋島家は「鍋島御三家」として創立された。
「鍋島御三家」とは佐賀藩鍋島家の分家のことで、小城藩蓮池藩鹿島藩の3藩を指す。



小城藩鍋島家は佐賀藩主・鍋島勝茂の庶長子・元茂が立藩したもので、家禄は7万3千石だった。

明治維新後、小城藩鍋島家は子爵を与えられて華族となった。
当時の当主・鍋島直虎には2男3女があり、その三女が鍋島鍬子である。鍬子は「としこ」と読む。

鍬子は明治35年8月8日に生まれた。
8が重なる縁起の良い日に生まれた縁起の良い子だったが、この「縁起モノ」の娘さんが大正9年に大騒動を引き起こす。

事件は、大正9年1月8日の夕方に発生した。
鍋島鍬子がお抱え運転手の多田という男と駆け落ちしたのだ。
当時19歳、学習院女子部3年生だった鍬子は運転手の多田に恋をした。多田が「イケメン」だったことも原因の一つだが、やはり大きな原因となったのが19歳という年齢だった。誰にでも身に覚えがあるだろう。このくらいの年齢の頃は異性への興味が強いのだ。

家柄のことを思えばこの手の不祥事はあってはならないので、鍬子・多田両人に対してそれなりの「教育」は鍋島家からあったのだろうが、鍬子は好奇心を抑えられなかった。
目の前の「イケメン運転手」との逃避行。そして二人きりの甘い生活。所詮は子爵令嬢の空想の世界でしかないのだが、その空想を現実のものにしようとする実行力を19歳という若さは持ち合わせている。「若さは馬鹿さ」である。

二人の失踪に気付いた鍋島家はすぐさま捜索し、二人が東京駅を午後7時30分に発車する列車に乗車したことを突き止める。
鍋島鍬子の夢見た甘い生活の空想は、午後8時7分に列車が横浜駅に到着したところで幕を下ろした。
横浜駅に停車した列車に横浜駅長や助役が乗り込んで来たのだ。
駅長と助役は鍋島家から通報を受けており、列車内で二人を見つけると、車外につまみ出して鍋島家に引き渡した。



鍋島家では多田を解雇。解雇後の1月12日、『東京日日新聞』はこの駆け落ち騒動の記事で



「男は美貌にて女たらし」



と書いた。
階級社会のエゴであろう。階級社会でこの手の不祥事が起こると、たいていは階級が下の者を一方的に悪人にして「はい、おしまい」なのだ。



その後、鍋島鍬子は萩藩(長州藩)の分家で男爵の毛利元良と結婚した。
2男2女をもうけ、昭和55年2月19日に没した。