もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/松平武元

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こんな寒い日にゃ、軍鶏鍋に熱燗よ。

軍鶏の歯ごたえってえのはそんじょそこらのコケコッコーとは違うからな。

「べごにあ」ってえ花は、ずいぶんとまあ真っ赤っ赤な花なんだなあ、奈穂子サン。

で、この花、石岡に咲いてるんだって?

石岡ってえと松平源之進様の御実家だあな。源之進様は石岡藩から館林藩に養子に入りなすった。

石岡藩ってえのは水戸様の御連枝で、石高は2万石だった。え?何か言ったかい、奈穂子サン?

「少ねえ」?はははは、面白えこと言うなあ。

御三家の御連枝(分家)ってえのはだいたいこんなモンよ。

尾張様の御連枝は美濃高須3万石、紀州様の御連枝は伊予西条3万石だ。

水戸様はちょっと御連枝が多くてな。まず讃岐高松の松平家、こいつァちょっと他の御連枝とは別格でな。12万石与えられて、幕政への口出しも認められてた。

次に陸奥守山の松平家。ここは2万石だ。その次に常陸石岡2万石、最後に常陸宍戸1万石だ。

源之進様はこのうちの石岡藩の三男坊として生まれなすった。御連枝とはいえ三男坊だ、何事も無けりゃあ部屋住みの穀潰しで「はい、おしまい」よ。ところがどっこい館林の松平武雅様が24歳でぽっくり逝っちまった。

館林藩松平清武様っていうエラーいお人が作った藩だから、そうそうお取り潰しってワケにもいかねえ。そこでだ、奈穂子サン。石岡藩の三男坊を急養子(末期養子)にって話になったのよ。

ただな、この養子の一件、幕府は気に入らなかった。藩祖の清武様は文昭院様(家宣将軍)の御実弟でな、ひと頃は「八代将軍に」ってえ噂まで出たお方だ。清武様には清方様ってお世継ぎがいたんだがこれが清武様より先に死んじまった。で、清武様は尾張様の御連枝の美濃高須藩から武雅様を養子にもらった。もちろん、尾張の連中が何か企んでいたのは間違いねえんだ。つまりは、館林藩を「尾張の分家同様にしちまえ」ってことだ。ところが武雅様がすぐにぽっくり逝っちまった。もちろんお世継ぎなんて残しちゃいねえ。そこで尾張の連中考えた、「そうだ、水戸と組もう」ってな。そこで水戸の連中に相談して石岡の源之進様を館林に入れたってワケだ。

「どーして館林にこだわるの?」さすがァ奈穂子サンだ、眼の付けどころがお見事だぜ。

館林ってえ土地は、譜代の重鎮か家門(親藩)のどっちかしか藩主になれねえ格式高ーい土地なんだ。尾張の連中はそこブン獲って九代将軍の座をもぎ取るための足がかりにしようとしなすった。

それに有徳院様(吉宗将軍)が気付いたってえワケだ。そんで源之進様を館林から陸奥の棚倉なんて雪降って寒いトコにトバしたんだ。尾張の連中も館林の連中ぐれえに震えたろうぜ。まあでも14歳の源之進様にゃあ棚倉の寒さは骨身に凍みてつらかったろうぜ。

28歳のとき、浚明院様(家治将軍)付き御老中に就任したのをきっかけに館林に返り咲いた。

この頃にゃ源之進様は名前を松平武元って改めていなすった。武元は「たけちか」って読むんだぜ、奈穂子サン。

武元様は有徳院様から信用されててな。有徳院様の葬儀委員長をあの越前のダンナ(大岡忠相)と一緒に務めたんだ。

惇信院様(家重将軍)が死んで浚明院様が十代将軍に就くと、武元様は首席老中になった。

武元様も大炊頭様(土井利勝)とおんなじで「(吉宗・家重・家治の)三代の名相」って呼ばれた。

浚明院様の代は財政が比較的安定してたこともあって、武元様も幕政を執るうえで楽だったんじゃねえのかな。浚明院様の前半を支えたのが武元様、後半は例のあの田沼意次だ。

浚明院様ってお方は、ちょっと無気力で消極的な将軍だった。だからまあ、首席老中としてはよっぽどしっかりしなきゃあって「ぷれっしゃあ」はあったかも知れねえな。

首席老中であること17年、武元様は65歳で亡くなるまで幕政をお執りなされた。相当なキレ者だった。

石岡に咲いた真っ赤な花ァ見て、ちょっと思い出しちまったよ。

あ、軍鶏が煮くたびれちまう。

奈穂子サン、また。