奈穂子様/忠臣蔵
最近すっかり冷え込む日が増えやしたね、奈穂子サン。
こんな日にゃあ濃い目の出汁の鴨南蛮をズルズルッとね。
赤穂の浪人さんたちも、本所の吉良屋敷に討ち入る前は蕎麦をズルズルッとやったって言うじゃありやせんか。
ま、関東者は蕎麦が相場、うどんは西のお方の食べ物でさあね。
おっと、江戸にも「一本うどん」なんておもしれえうどんを出す店もあるんですぜ、奈穂子サン。
え?あの日どうして浅野様は吉良のジイサンに斬りつけたかって?
ま、アレでさあね。
「乱心」の一言でさあね。
浅野様が勅使接待を仰せつかったのは元禄14年。実はこれ、浅野様は二度目のお役目なんでさあ、奈穂子サン。
一度目は天和3年、このときも接待役の上司は吉良のジイサンだった。
そのときは、何事も無かった。
それもそのはずだ。あのときは赤穂の家老に大石頼母助って名家老がいなすった。
この頼母助サンって人が世間をよく知っていなすった。だから、吉良のジイサンに「袖の下」をたんまり渡した。
吉良のジイサンも貰うモン貰ったら上機嫌、そりゃもう若い浅野様に手取り足取り親切にしなすった。
ところが18年経った二度目のときはあの始末でさあ、奈穂子サン。
二度目のときは、頼母助サンはもうこの世にゃいなかった。他の家老どもの中に世間の分かるヤツがいりゃあ良かったんだが、どいつもこいつもウドの大木だったんだ。
お役目の予算ってのがある。こいつは実際にお役目に使うゼニのことで、「袖の下」とは別モンだ。
浅野様は「700両で」とお言いなすった。
「馬鹿言っちゃいけねえ!」吉良のジイサンは色なして怒鳴った。
無理もねえ話でさ。
いつの時代も物はタダじゃ買えねえ、物価ってモンがある。そうだろう、奈穂子サン?
天和3年の物価の感覚にちょっと毛が生えた程度のゼニ勘定しか出来なかったんだ、浅野のご家中は。
元禄8年、お犬様(綱吉将軍)は荻原ナントカってえ勘定奉行に命じて小判をいっぱい作らせた。
「改鋳」ってヤツだ。
奈穂子サンにわかりやすく言やあ、それまで使ってた小判(慶長小判)を鋳潰して新しい小判をたっくさん作るってワケだ。
で、問題は新しく出来た小判のことでさあ。
今までの小判が「金100ぱあせんと」だとしたら、新しい小判は「金67ぱあせんと」。つまり、質の悪いゼニが世間に出回ったってことでさあ。
質の悪いゼニを使うと、アキンドがそのゼニを信用しねえ。そいつが物価高になって跳ねっ返る。
それで元禄8年以降の物価は天和3年の頃の物価の倍以上に跳ね上がったってワケでさあ。
浅野様も浅野のご家中もそこんトコを理解しねえ。
だから、天和3年の400両にちょいと上積みして700両ってソロバン弾いた。
これじゃ「袖の下」以前の話の金額だ。吉良のジイサンが色をなすのも無理はねえ。
それでも、「袖の下」でもやりゃあ吉良のジイサンだって700両なりの遣り繰りを手取り足取り親切にしてくれたかも知んねえが、「袖の下」はお役目が全て終わってからでいいって家老どもが浅野様に言いやがった。
それであのジイサンには「袖の下」が無かった。
「袖の下」ってのは奈穂子サンの時代では「賄賂」って言われちまうんだろうけど、この時代の「袖の下」ってのは奈穂子サンの時代の「授業料」ってヤツだ。
吉良のジイサンは「高家」って家柄の旗本だったが、こいつあ位ばっかし高くって、実際は貧乏だった。だけど、高家はお公家さんやら何やらエラい人たちと日頃からお付き合いすんのがお役目だ。当然、ゼニがかかる。「袖の下」はそのお付き合いのゼニと自分の生活費の二つの顔があったんでさあ。
せめて相場通りの予算を出してりゃ「袖の下」が無くても吉良のジイサンは浅野様をあそこまでいじめはしなかった。
浅野の家老どもは世間をわかっちゃいなかった。ねえ、奈穂子サン。
もちろん、紀州様(徳川吉宗)のおっしゃる通り、「武士を侮辱するのはけしからん」ってえのも正しいが、吉良のジイサンも苦しかった。
お犬様はちょいと仕事がダメだったりするとすぐ「改易だーっ」、「切腹だーっ」っておやりなさる。奈穂子サンの時代でいうトコの「ぷれっしゃあ」ってえのは相当なモンだった。
足りない予算でお役目を無事に果たす。無理な話でさあ。
追い詰められた吉良のジイサンが浅野様にキツく当たり続けたのも無理はねえ。
奈穂子サンに参考までに。元禄10年に同じく勅使接待役を仰せつかった日向飫肥の伊東様は1200両用意しなすった。
浅野様は動機のお取り調べで「よくわからない。気付いたら脇差を抜いていた」とおっしゃった。
正直なトコなんじゃねえのかな。
予算の足りない「ぷれっしゃあ」から吉良のジイサンにとことんいじめられた。
追い詰められた浅野様はいっとき乱心しちまったんだろう。無理もねえ話だ。
あ、蕎麦が伸びちまう。
奈穂子サン、また。