もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/六浦藩相続一件

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あじをな、ただ塩だけ振って焼くんだ。

こいつが酒に合うのよ、奈穂子サン。

木槿ですかい?

ちょいと悲しげな感じの花でさあね。

こいつが金沢に咲いてるんですかい。

武蔵金沢はかつて北条の時代に北条実時様ってえキレ者のお方が住んでいなすった。実時様の御子孫は姓を金沢に変えて得宗家に仕えた。執権になった金沢貞顕様は実時様の御子孫だ。

で、北条の時代が終わって、何百年と金沢の地は誰も見向きもしなかった。この誰も見向きもしねえ金沢の地に吉宗公の代に藩が置かれた。当時金沢の地は六浦って呼ばれてたからこの藩は六浦藩って名前になった。

六浦藩は1万2千石。こんな小せえ藩なんざ誰も見向きなんかしねえんだが、藩主が毛並みのいいお人でな。

米倉主計頭忠仰様。

下野皆川から転封されて来た。このお方、もともとは柳沢鍋三郎保教と名乗っていた。柳沢美濃守吉保様の六男坊だ。柳沢様は綱吉公の代に大老側用人にまで出世されたお方だ。

「皆川より金沢(六浦)のほうが江戸に近かろう」吉宗公はこう言って忠仰様を六浦に転封させた。江戸に近いってえことは、参勤が楽になる。ま、優遇したってワケだ。

何故優遇したかって、奈穂子サン?

それはな、忠仰様の腹違いの兄上・柳沢吉里様が綱吉公の御落胤だったからよ。吉里様の母親は飯塚染子ってえオンナで、綱吉公の「お手付き」だった。染子おねえさんは桂昌院様(綱吉将軍の生母)とうまくいかなくてな。それで「まざこん」の綱吉公は染子おねえさんを一番信用出来る美濃守様に押し付けた。が、押し付けられて間もなく、美濃守様は染子おねえさんが身ごもっていることに気付く。ま、結局綱吉公は認知はしねえ代わりに柳沢家に松平姓をお与えなすった。

吉宗公は、綱吉公のおかげで八代様になれた。だから吉里様の実弟ならばと優遇した。忠仰様はまあ平凡なお大名だった。その忠仰様が死ぬ前にヘマをやらかした。

忠仰様には里矩様ってえお世継ぎがいたんだがな、忠仰様の死ぬ間際、里矩様はまだ3つだった。「こいつはマズい。3つじゃ取り潰しになるかも知れねえ」って幕府に「跡継ぎの里矩は9歳です」ってウソを幕府に届け出て死んだ。

で、このウソがバレた。松平左近将監様(乗邑)は吉宗公に「あるまじき不始末。改易されて然るべし」って言ったけど、吉宗公は家老どもを処分しただけで六浦藩米倉家は取り潰さなかった。こんなトコまで綱吉公に義理を通すなんざあ、並みの将軍じゃ出来ねえぜ。

あじは天麩羅にしてもイケるんだぜ。

奈穂子サン、また。