もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/松平清武

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弥七め、きつねうどんにいなり寿司なんて、油揚げだらけじゃねえか。

水戸のジイサンが館林城を見に行くってんで付いて行ったらこれだ。

館林の城下にゃお稲荷さんがあるが、だからってこんなに油揚げだらけにするこたァ無えだろう…

松平右近将監清武様。

家宣公の御実弟だ。

実ァな奈穂子サン、この右近将監様が八代将軍の「こうほしゃ」の一人だったんだ。

八代将軍の「こうほしゃ」は3人いた。尾張の継友様、紀州の吉宗様、そして館林の右近将監様。

館林藩は5万1千石。尾張紀州に比べたらずーっと小せえ身代だ。だがな奈穂子サン、八代将軍については「尾張ぐるーぷ」と「紀州ぐるーぷ」がいがみ合ってまとまりがつかなくなっちまっててな。心配した天英院様(近衛煕子)が水戸の綱條様に「館林どのはどうじゃ?」って打診された。

綱條様は「館林どのは一度越智家に養子に行かれたお方。それはいけませぬ」って首を横に振った。右近将監様は幼少の頃、父親の甲府宰相様(徳川綱重)が認知しなかったんで一旦家臣の越智家に養子に出されたんだ。

宰相様が死んだあと、右近将監様は家宣公によって呼び戻されて松平姓に戻った。家宣公は右近将監様を数少ない身内として遇したんだ。ま、こいつは同じく身内が数少なくて大和大納言様(豊臣秀長)をだいじにした太閤さんとおんなじだわな。

で、家宣公が六代将軍にお就きになると、右近将監様は上野館林5万1千石のお大名になられた。身代は小せえが家宣公の御実弟だ。その「存在感」は大きかった。

そんなことで天英院様は「尾張紀州でまとまらねえなら館林どの」って考えたんだろうなァ。「もしものときの隠し玉」ってな。

確かに、継友様や吉宗様に比べたら右近将監様は家宣公にずっと近い御血筋なんだ。御実弟なんだからな。

しかしだ、御老中の方々は「側用人制度」をさっさと止めさせてえんだ。右近将監様は家宣公の御実弟。当然、家宣公のやり方を引き継ぐだろうぜ。それを見越した相模守様(土屋政直)が吉宗様に接近して八代将軍を決めちまった。

吉宗公は右近将監様が八代将軍の「隠し玉」だったことを知ってなすったんだがな、知らん振りして右近将監様をそのまま館林藩主に留めた。

こいつァ天英院様に気を遣ってのこった。家宣公と天英院様は誰もが知ってるおしどり夫婦よ。右近将監様の御身分を保証することで吉宗公は天英院様を安心させた。そして天英院様からの信頼と大奥からの支持を勝ち取ったのよ。ま、たった5万1千石の身代でも、場合によっちゃあ「きーまん」になれるってこったな。

右近将監様は晩年は不遇でな。嫡男の清方さまに先立たれちまってな。そンで尾張から武雅様をお迎えになった。

右近将監様の死後、武雅様もすぐに死んじまってな。そこへ水戸から養子に入ったのが松平源之進様、のちの松平右近将監武元様よ。

あーもうダメだ。

油揚げばっかし食ったから口の周りがベタベタしていけねえや。

奈穂子サン、また。