もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/郡上騒動

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今日はな、かつおと長ねぎをしょうゆで煮込んでな。こいつで今、弥七と一杯やってるのよ。

金森兵部少輔頼錦様。

どうだい奈穂子サン?久しぶりにトンチキのニオイがプンプンして来そうな名前だろう?

こいつは本物の筋ガネ入りのトンチキだ。

このトンチキ兵部少輔様はな、美濃郡上八幡3万9千石のお殿様でな。で、このトンチキが本多家なんかと縁故だったことが騒動のタネだった。

金森家は外様なんだがな、本多家と縁故ってえことで奏者番に任ぜられた。奏者番になったら次は寺社奉行、そンでそこから若年寄大坂城代京都所司代→老中職って具合に出世してくんだ。

ま、早ええ話がこのトンチキ兵部少輔様は「出世コース」に乗ったってえこった。

そしたら次は「お付き合い」だわな。出世するにゃあ顔が広くねえとな。だからバラ撒くゼニがいくらあっても足んねえくらいだった。

そこでだ奈穂子サン、このトンチキ兵部少輔様は郡上藩の年貢徴収方法を検見取法にした。

奈穂子サン、綱吉公の代からこのかた年貢の徴収は定免法が主流だった。定免法はな、豊作不作に関係無く一定の年貢を納めさせる徴収方法でな。このやり方だと豊作の年は手元にコメがたくさん残る。だからお百姓もやり甲斐感じて農作業に精出した。

ところがだ、検見取法ってえのはコメが穫れたら穫れた分に対して年貢をかける方法でな。収穫(所得)を根こそぎかっさらうモンだから、そりゃあお百姓は猛反発よ。この検見取法を採用してから郡上藩はずーっと一揆が続いた。

そんなとこに、今度は郡上藩領の越前国石徹白村ってえ村で宗教絡みの騒動が起こったんだ。石徹白は「いとしろ」って読む。覚えといてくんな。

この石徹白村はもともと天台宗を信じる村民が多数だったんだがな、ここに一向宗浄土真宗)を信仰する連中が現れはじめてな。

天台宗ぐるーぷ」の親分が上村豊前ってえイヤなヤツでな。「一向宗ぐるーぷ」の親分が杉本左近ってえお方で、この杉本サンはみんなから好かれてた。上村のヤツにすりゃあ面白く無えモンだから、トンチキ兵部少輔様にあること無いこと告げ口して杉本サンを領地没収に追い込んだ。

杉本サンはこの無法をまず江戸の寺社奉行本多長門守様(忠央)に訴え出た。だがな奈穂子サン、長門守様はトンチキ兵部少輔様と繋がってやがってな。訴状はそのまま金森家に届けられちまった。トンチキ兵部少輔様は杉本サンをとっ捕まえて軟禁した。

しかし杉本サンは軟禁状態から脱出してとうとう老中職の酒井左衛門尉様(忠寄)に籠直訴した。

左衛門尉様はトンチキ兵部少輔様とは繋がっちゃいねえから、この訴状は受け取られた。で、この一件を知った上村のヤツは杉本サン寄りの村民500人を石徹白村から追放した。こいつは村の人口の3分の2にあたる。ひでえ話だ。追放された村民のうち100人近くが寒さと疲労で死んじまった。ったくロクなことしねえや。

これを知った郡上藩の一揆の連中はますますトンチキ兵部少輔様に怒りを燃やした。一揆の連中は左衛門尉様が訴状を受け取ったことを知ると、喜四郎・善右衛門・長助・定次郎・藤吉の5人を江戸に差し向けた。そしてこの5人も左衛門尉様に籠直訴した。左衛門尉様も杉本サンのときと同様5人が持って来た訴状を受け取った。

老中職が訴状を受け取った以上、詮議(裁判)にかけられるはずなんだがな、同じ老中職の本多紀伊守様(正珍)が「詮議するに能わず」って言って詮議させなかった。ま、この時点では杉本サンもお百姓の5人も直訴は空振りだったってえワケだ。紀伊守様も長門守様も本多一族。トンチキ兵部少輔様の縁故だ。そりゃ、当然庇うわな。

ただな奈穂子サン、この「両本多」は単に「親金森」ってだけでトンチキ兵部少輔様を庇ったんじゃねえんだ。「両本多」は奈穂子サンの時代でいう「増税論者」でな。だから郡上藩の検見取法を「大いに結構。もっとやれ」って思ってた。そンで勘定奉行の大橋のオッサン(親義)を抱き込んで「郡上藩の検見取法導入は幕府の指示」ってえ文書を捏造した。ろくでなしそのものだ。

幕府は家重公の代になってから、年貢を重くするか流通や商業に課税するかで意見が分かれててな。奈穂子サンの時代に直せば前者は「直接税」、後者は「間接税」だわな。

「両本多」や大橋のオッサンは「直接税派」だった。だから郡上藩のように検見取法を導入する藩は大歓迎だったんだ。でもな、「間接税派」は「年貢での増税は限界だ。これからは商業に課税していくやり方にしなければ」と思ってたんだ。そしてその「間接税派りーだー」が田沼のオッサンだった。

田沼のオッサンは「直接税派を追放しねえと、幕府の財政はお先真っ暗だ」と思っていた。そンなトコに、前回籠直訴にしくじった喜四郎と定次郎が江戸の目安箱に郡上藩の検見取法によるお百姓の被害を訴え出た。

今度は目安箱だ。「両本多」といえども握り潰せねえ。とうとう郡上藩検見取法一件及び石徹白村騒動一件は幕府による詮議となったのよ。

詮議には家重公の御命令で田沼のオッサンも裁判官として加わった。田沼のオッサンは「ちゃんすだ」とばかりにお百姓や杉本サン有利になるよう詮議を進めた。

吟味(取り調べ)を受けたお百姓300人。さらにはトンチキ兵部少輔様や「両本多」、それに大橋のオッサンまで吟味の対象となった。

二晩に及んだ詮議は田沼のオッサンの一声で決した。「罪は金森兵部少輔にあり。杉本左近及び郡上藩百姓に非無し」という判決でな、これで郡上藩はお取り潰しだ。

「幕府の指示」を捏造した紀伊守様は老中職を罷免のうえ謹慎、長門守様はお取り潰し。大橋のオッサンもお取り潰しとなった。田沼のオッサンはこの詮議を使って「直接税派」の追放に成功したんだ。

このあと、幕府は株仲間の結成とその株仲間への課税と「間接税」重視へと政策転換していったんだ。田沼のオッサンは貨幣経済は否定出来ないところまで来ているってえ「現実」を無視出来ねえってわかってたんだろうぜ。

トンチキ兵部少輔様かい?

トンチキ様はお取り潰しになったあと、南部にお預けになってな。寒い盛岡でおっ死んでオロクは塩漬けにされて真っ黒けになった。

盛岡に来た幕府の検屍役のヤクニン2人は南部の家老に「さっさと処理しろ」って言ったきり、賄賂も酒ももらわずにとっとと江戸に帰っちまった。

あとになって、トンチキ様の六男坊が赦免されて旗本になったとき、トンチキ様のオロクは改めて火葬されて六男坊に返された。

田沼のオッサンはうなぎ好きでな。

オレもうなぎが好きなんだが、今日はかつおでガマンだ。

奈穂子サン、また。