もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様番外編/平岩親吉

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正月は雑煮だ。

今年はな、餅と一緒にごぼうとコケコッコーをたっぷり入れたからな。

そりゃおめえ、ウマいの何のって。

何だオイ麻由坊、またおめえか。

で、今日は誰の腹切り話を聴きてえってんだ?

正月早々、おめえは縁起でも無えガキだ。

へ?

平岩主計頭様(親吉)だ?

麻由坊、おめえはもとからちょっとアレなガキんちょだったが、主計頭様の話なんざ聴いていってえどうするんでえ?

ま、主計頭様の話だったら奉行所に聴かれてもマズいこたァひとつも無えからな。

主計頭様はな、権現様と同い歳よ。

同い歳なら話もしやすかろうってことで5つのときに駿府へ出された。そん時は権現様は駿府で人質だったからな。

駿府で権現様の小姓になって、駿府から岡崎に帰ったら信康様付きになった。それだけ権現様から信用されてたってこった。

ところがだ麻由坊、その信康様は信長公の勘気に触れて腹切りになっちまった。こん時主計頭様は権現様に「この首差し出すから信康君を助けてほしい」って頼んだんだがな、もう手遅れだった。

信康様のことがあって主計頭様は1年間蟄居したのちに権現様の直臣に戻った。権現様も人質の頃から何でも話せる主計頭様が戻って来てホッとしたのよ。

関東御討ち入りのあと、主計頭様には上野厩橋(のちの前橋)3万石が与えられたんだ。それから関ヶ原まで主計頭様は厩橋藩主よ。

豊太閤が死んじまったあと、権現様は豊臣とのいくさを念頭に置いててな。そこで権現様は子供のいねえ主計頭様にてめえの七男の仙千代様を養子に与えた。権現様は子沢山だがな、家臣に子供をやったのはこのとき限りよ。人質の頃からの付き合いだ。そんだけ主計頭様を信用してたってこった。それに権現様はこの先豊臣とのいくさで主計頭様が討ち死にしてもてめえの倅を養子にやっときゃあ平岩家は断絶しねえって思ったんだろうぜ。

ただまあ、その仙千代様は関ヶ原の半年くらい前に6つで死んじまった。オレたちの時代は5人生んで2人育ちゃいいほうだって時代だ。しょうがねえって言やあそれまでなんだがな。

関ヶ原のあと、仙千代様の同腹の弟の五郎太様(のちの徳川義直)が甲斐一国を与えられると主計頭様は五郎太様の付家老になった。権現様は五郎太様に「平岩主計頭を父と思って何でも図れ」って言ったのよ。それを聞いた主計頭様は顔くしゃくしゃにして泣いちまってな。仙千代様の夭折がこたえてたんだろうぜ。主計頭様も五郎太様を我が子のように思いながら接したのよ。

義直様が甲斐から尾張に国替えになると、主計頭様は尾張犬山に12万石を与えられた。大名の付家老が12万石だ。おい麻由坊、どんだけ主計頭様が信用されてたか、これでわかるだろ?

主計頭様の最期は名古屋城二ノ丸御殿だった。義直様は権現様の言いつけ通りに病身の主計頭様を父親扱いしたのよ。二ノ丸御殿で治療看病にあたったんだがな、70歳であの世に旅立った。あれァ確か慶長16年の大晦日、あと1日で年越しってとこだったんだがな。仙千代様・五郎太様と二人の倅の面倒を見させたんだ。主計頭様は佐渡守様(本多正信)とはまた違った信用があったんだろうぜ。

主計頭様には跡継ぎがいねえ。尾張犬山12万石は無嗣収公。犬山は成瀬家に与えられた。

主計頭様が死んだ3年後に冬の陣で義直様は見事初陣を果たした。初陣の晴れ姿、あの世の主計頭様はきっとにこにこしながら見てただろうぜ。

今じゃ尾張にも「名古屋こーちん」とかいううめえコケコッコーがいるっていうじゃねえか。

雑煮に海老入れるヤツもいるが、オレァやっぱりコケコッコーだ。

麻由坊、またな。