もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様番外編/宇陀騒動

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いいねえ。

この、グツグツと煮える鍋の中に、たっぷりのどじょう。

つまみに良し、おかずに良しだ。

何だ麻由坊、またおめえか。

ああダメだダメだ。

このどじょうは誰にもやんねえよ。

ガキはさっさと家帰えって寝ろってんだ。

あん?

灘の酒持って来たからトンチキお大名の話してくれろだ?

しょうがねえなあ。

じゃ、上がってけよ。

麻由坊、おめえ、今日はどのトンチキお大名の話しろってんだ?

大和侍従様(織田信武)だ?

麻由坊、おめえはガキのくせに「まにあっく」でいけねえ。

大和侍従様はな、あの織田信雄様(信長の次男)の直系だ。

大和宇陀松山2万8千石の小っちぇえ大名だがな、何せ信雄様の直系よ。幕府では宇陀松山藩は石高に関係無く国持扱いだ。官位は四品(従四位下)まで進むし、御城では大広間詰だ。そンだけ信長公の血筋は尊ばれたってこった。

ただまあ、あの信長公のご子孫だからな、やっぱし大人しく大名やってらんねえトンチキが出て来るのよ。

信武様は幼名を乱麻呂っていってな。どうだ麻由坊、幼名の時点でトンチキのニオイがプンプンしやがるだろう?で、やっぱしトンチキに成長しちまうんだよな。

トンチキ信武様の代の宇陀松山藩の財政は火の車だった。何せたった2万8千石の身代なのに、江戸じゃ国持の格式(15万石)を維持しなきゃなんねえ。そンなの、ゼニがいくらあったって足りねえに決まってるじゃねえか。

宇陀松山藩のお殿様は代々定府(江戸定住)だったんだがな、定府じゃ江戸での生活費が馬鹿になんねえ。そンで信武様は綱吉公に国許への帰国を申し出た。綱吉公も由緒ある信武様の申し出に二つ返事で許可出した。

国許に帰えって信武様はあらビックリよ。国許じゃあ藩祖・信雄様の代から仕えてる「古参衆」と二代目・高長様の代から仕えてる「加賀衆」がいがみ合ってやがった。

「古参衆」と「加賀衆」は藩財政建て直しでもいがみ合っててな。ま、どこの藩でもそうなんだが、こういったのは大抵古株の連中が旧態依然と無駄遣いを続けて新参者の連中が「改革だ」って息巻くんだ。宇陀松山藩の場合は「加賀衆」が「改革派」だったってえこった。

その「加賀衆」の筆頭が中山正峯様ってえよくデキたお方でな。信武様も中山様を信用して財政改革を任せた。

ま、あとは麻由坊の想像通りだ。中山様を面白く思わねえ「古参衆」の連中が中山様の改革にケチ付けて邪魔をする。

頭にきた信武様ァな、ありゃあ確か元禄7年の9月だったな。「古参衆」の田中安定てえのを松山陣屋に呼びつけてその場でお手討ちにしたのよ。殿様直々にお手討ちなんざ狂気の沙汰だぜ。それからその日のうちにおんなじ「古参衆」の生駒則正とその一族を皆殺しよ。

確かにこれで「加賀衆」は改革がやりやすくなったがな、これが世間様に知られちまう。世間様は信武様を「大和侍従様は発狂乱心」って目で見るし、江戸でも綱吉公が「宇陀松山藩はまともなのか?」って疑いの眼差しで見るようになる。

やっぱ殺したのがマズかったな。生駒則正に至っちゃあ一族皆殺しだからな。結局これが信武様にとってトンチキの烙印押しになっちまったのよ。

トンチキの烙印押しがよっぽどこたえたんだろうぜ。信武様はこんだァ本当に発狂乱心しちまってな。あれァ確か田中や生駒たちを殺した次の月、元禄7年の10月の晦日(30日)だったな。信武様は意味のよくわかんねえことをブツブツ言いながら太刀を抜いてな、で、てめえで頸動脈をブスリよ。享年は40だった。

綱吉公は浅野長恒様に死因を調べるようにお命じになった。長恒様は宇陀松山で事細かに調べあげて綱吉公に御報告よ。

藩主横死はお取り潰しなんだがな、何せ宇陀松山藩は信長公の血筋だ。綱吉公もその血筋を重んじて息子の信休様に2万8千石のうち2万石の相続を許された。で、信休様は大和宇陀松山から丹波柏原へ国替よ。この国替のとき、柏原藩織田家は国持の格式からヒラ外様の格式に下げられた。信武様を発狂乱心に追いやった元となった国持の格式が無くなって、跡継いだ信休様もせいせいしたんじゃねえか。

ああ、今日はウマい酒だったぜ麻由坊。

どじょうに灘の酒。

い~い一日だったぜ。

麻由坊、またな。