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いずみ江戸日記/徳川頼職の死

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今日のいわしの煮付けはいつもよりうめえなァ。

それもそのはずだ。いわしと一緒に煮付けた梅干しが紀州の梅干しなんだからな。

いずみサンまで紀州の梅干し持って来たんですかい。

じゃ、そいつは湯漬けの具にして食べやしょう。

紀州の梅干しなんざ持って来るってこたあ、今日は紀州様の話をしてくれろってことでしょうよ。

わかりやした。

そンじゃあちょいとお耳を拝借しますぜいずみサン。

頼職公、ですかい?

いずみサン、何でまたあのお方のことを?

いや、別に頼職公の話は他の徳川御一門の方々と違って奉行所にしょっ引かれやしねえが、いずみサンみてえな若いお嬢さんが知りたがる話でもねえもんで。

おそらくいずみサンは頼職公の御病死が吉宗公による毒殺なのかをお知りになりてえんでしょう?

ま、そりゃ無いですぜいずみサン。

いずみサン、頼職公の死因は風邪の悪化だ。頼職公はな、生まれつきからだが弱かった。そんな頼職公が無理して江戸から和歌山に帰国しなすった。無理な旅路だ。道中で風邪引いちまった。風邪が治らねえまんま和歌山入りしてそのまんまぽっくりだ。26年のあっという間の生涯だった。

あとはいずみサンの知っての通りだ。頼方様が紀州藩を相続して徳川吉宗公におなりなすった。

いずみサン、そりゃ確かに頼職公は毒殺のほうが「わいどしょー」としちゃあ面白れえのかも知ンねえが、頼職公はありゃあ風邪をこじらせての御他界だ。

いずみサンにだって身に覚えがあンだろう?疲れがたまってたところに風邪もらっちまって、それがなかなか治らなかったことが。オレたちの時代もいずみサンの時代も人間のからだの仕組みは変わらねえよ。頼職公は陸路伊勢へ向かう道中で風邪になった。熱が出て、食ったモンを吐いた。伊勢を過ぎて船に乗ってからも熱が下がらねえ。で、和歌山に着いた頃にゃあどうにもならねえ御容態だった。

いずみサンの時代とオレたちの時代との決定的な違いはな、医療と衛生の面でオレたちの時代は遅れてたってことだな。

頼職公のこの症状、いずみサンの時代の医者なら「抗生物質」とかいうの飲ませりゃ一発で治るだろ、違うかい?ま、オレたちの時代はそんな強い薬は無えからな。

いずみサンが毒殺を疑うのもわかる。

頼職公が御他界する前年、宝永元年の4月に頼職公の兄・綱教公の正室である鶴姫様が28歳で御他界された。鶴姫様御他界で綱吉公は六代将軍を綱豊公(のちの家宣将軍)にお決めなすった。

明けて宝永2年の5月14日に綱教公が41歳で御他界された。死因は頼職公とおんなじ風邪の悪化だ。次いで8月8日に御隠居の光貞公が80歳で御他界された。急に倒れてそのままポックリだ。で、9月8日に頼職公が御他界だ。この流れでいきゃあいずみサンじゃなくても毒殺疑うぜ。

でもよいずみサン、もし、頼職公が毒殺だとして、下手人が吉宗公ってえのは、ちょいとおかしかねえかい?いずみサン、頼職公はからだが弱いせいで縁組もままならねえし城のオンナにも手ェ出さなかったんだぜ。そんな状態なら、放っといたって吉宗公の養子相続が見えてるじゃねえか。

もしいずみサンが毒殺説を捨てきれねえってんなら、下手人かも知れねえヤツを教えてやンぜ。いずみサン、もし毒殺なら、そいつァ頼職公のみならず綱教公・光貞公ひっくるめて甲府のヤツらの仕業だぜ。

甲府のヤツらは宝永元年に六代将軍をもぎ取った。もぎ取ったが、甲府のヤツらは紀州が息吹き返すのを恐れたんだ。で、息吹き返さねえように綱教公・光貞公・頼職公と一服盛ったのよ。ただ、頼方様には一服盛れなかった。頼方様は綱吉公のお気に入りだからな。綱吉公のお気に入りを殺しちまったら足が付いちまうからな。

家宣公が六代将軍におなりなすったあと、甲府の連中は紀州藩をいじめ抜いた。そいつァ甲府の連中が紀州に対してやましいことがあってのこったろう。

その後起きたことに目ェ向けると、下手人が誰か見当が付くンでさァ。

ま、頼職公御病死に関しちゃあ吉宗公はシロだぜいずみサン。

いわしに梅干し。

何だか正月から長生きしそうな組み合わせだな。

いずみサンからいただいた紀州の梅干しは明日湯漬けと一緒に食べるとするか。

いずみサン、また。