もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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いずみ江戸日記/楯岡光直-最上騒動-

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おっ!?

いずみサン、そいつは糠炊きですかい?

こいつァいい。

いつものいわしがうめえいわしに化けるのよ。

じゃ、こいつに辛口の冷やで一杯やるか。

糠炊きってこたァいずみサン、小倉藩の話をすりゃあいいんですかい?

へ?小倉藩そのものじゃ無くて、楯岡甲斐守(楯岡光直)だって?

そりゃまあ、楯岡のオッサンは最上取り潰しのあと小倉で死んだからなあ。

わかりやした。

いずみサン、ちょいとお耳を拝借しやすぜ。

楯岡のオッサンは左少将様(最上義光)の四男だ。出羽楯岡に1万6千石を領した最上の家老でさァ。

ありゃあ確か元和8年のこった。同じく最上の家老の松根備前守(松根光広)ってえのがいて、こいつが幕府に「先代・家親は楯岡甲斐守に毒殺されました」って訴え出た。幕府は家老が訴え出たってことで取り調べを始めた。

訴えを受け付けた雅楽頭様(酒井忠世)は細かく調べたんだがな、毒殺をうかがわせるようなモンが一つも出てこねえ。で、雅楽頭様が松根のヤツに「おまえ、ウソついてんじゃねえのか?」って問い詰めたら「申し訳ございませぬ」って頭ァうなだれた。幕府は松根のヤツを御家騒動の下手人として柳河の左近将監様(立花宗茂)にお預けにした。

普段ならこれで仕舞いだ、いずみサン。だがないずみサン、幕府は松根のヤツが訴え出る前から出羽侍従様(最上家親)の死因を疑ってた。出羽侍従様は元和3年の3月6日に急死した。いきなりコロッと逝ったんですぜ、いずみサン。

幕府、特に御大老土井利勝)は「こりゃおかしいな」って思った。御大老は「死因調べて横死だったら最上取り潰しちまえ」って思ったんだが、いずみサン、最上は伊達の抑えだからってえことで同じ年の5月3日に出羽侍従様の嫡男・源五郎坊や(最上義俊)に山形57万石の相続を認めなすった。

でもよいずみサン、御大老も他の幕閣の連中も「ありゃあおかしい」って思い続けたのよ。何せ健康体の36歳がいきなりコロッと逝ったんだ。そりゃ、毒飼いや闇討ちを疑うぜ。ただまあ、最上は伊達の抑えってえことで御大老も他の幕閣連中もモヤモヤ残しながらも源五郎坊やの相続を認めた。

そのモヤモヤが5年経って家老の訴えになって表れた。結局証拠が無えモンだから、こンときゃあ松根のヤツを処分しただけだったんだが、御大老は「山形は御譜代を入れたほうが良いのではないのか」って思った。そこで御大老は最上家に「おまえンとこは万石以上の家臣が16人もいて義俊では家中を統一出来ねえから、一旦山形以外の土地に6万石を与えて、義俊が成長した際に改めて山形57万石をくれてやる」って沙汰したんだ。

大老としちゃあ最上は外様だからさっさと取り潰したかったんだがな、出羽侍従様が権現様や秀忠公から信頼の厚いお方だったんで無理矢理なことは出来なかった。

この6万石の話が出たとき、楯岡のオッサンと鮭延越前守様(鮭延秀綱)が反対した。「義俊が藩主のままではまた同じ騒動を繰り返しまする。同じことを繰り返すくらいならば最上家は取り潰していただきたい。これが最上武士の意地でござる」ってな。

そンでいずみサン、この話聞いた秀忠公が「ならば最上は仕置きするまでよ」ってお取り潰しになさった。楯岡のオッサンは小倉藩細川家へ、鮭延様は御大老(古河藩土井家)にお預けになった。

楯岡のオッサンは有能でな、越中守様(細川忠利)は楯岡のオッサンをえれえ気に入って細川家の家老にしたのよ。楯岡のオッサンが死んだあとも、楯岡家は熊本藩家老として続いた。

いずみサン、最上の遺臣ってえとどうしても鮭延様にばかり目が行きがちだが、楯岡のオッサンもなかなかの人物だったんですぜ。

糠炊きは小笠原家が持ち込んだモンだから、楯岡のオッサンは糠炊きを知らねえ。

こんなうめえいわし食ったら、楯岡のオッサン糠炊き熊本に広めたかもな。

いずみサン、また。