もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

奈穂子様/依田康勝

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油揚げを焼いて生姜醤油をたっぷりかけて食べる。

こいつがい~いつまみなんだよ。

藤岡の冬桜。

まるで奈穂子サンみてえな美しさだな。ついつい見とれちまったぜ。

藤岡ってトコは太閤さんの頃までは藩があったんだがな、関ヶ原の少し前に権現様に取り潰された。

藩主は依田右衛門大夫康勝様。権現様の江戸御討ち入りに従って上野藤岡3万石を与えられた。

なかなか肝っ玉の据わったお人でな。ま、だからこそ織田や武田に人質に行ってもケロッとしていなすった。権現様も康勝様を気に入っていて松平姓をお与えになった。

この康勝様が関ヶ原の少し前にしでかした。

大坂で、小栗三助ってえヤツと囲碁を打ってた。そしならな奈穂子サン、どういうワケだか知らねえが康勝様と小栗のヤツが言い争いになっちまってな。で、康勝様が「我慢ならん」って小栗のヤツをブスリよ。

ただな、この小栗ってヤツは権現のお気に入りでな、康勝様は「こいつはマズい」って思った。

それで康勝様は高野山に入って権現様に詫びを入れた。

権現様は「高野山に入っても許さねえ」って上野藤岡3万石を取り潰した。取り潰された康勝様は浪人よ。

ただ、捨てる神あれば拾う神ありで、下総結城10万石から越前北庄(のちの福井)70万石に大幅加増された結城秀康様が康勝様を召し抱えた。

秀康様は康勝様に越前木本5千石を与えなすった。これを機に康勝様は姓を依田松平から加藤に改めた。

秀康様は康勝様取り潰しの経緯を聴いたとき「気に入った!」と即決で召し抱えた。秀康様にも似たような過去があるからな。

秀康様はもともと太閤さんの養子だった。だから初めは「羽柴秀康」ってえ名乗りだった。この羽柴秀康だった頃に太閤さんの目の前でやらかした。

大坂城の城下で馬に乗っていたとき、太閤さんの家来のナントカってえヤツが秀康様を横から抜き去った。秀康様は「この無礼者!」ってこのナントカを追っかけて馬上で一太刀で斬り捨てなすった。

似た者同士なんだろうなあ。秀康様は度々康勝様を北庄に呼んじゃあ一緒に酒を飲んでた。

秀康様は「双子だから」ってえ理由で権現様に毛嫌いされた。そんで羽柴→結城と養子の渡り鳥よ。康勝様は小栗のヤツを刺して藤岡3万石を棒に振った。ま、ウマが合ったんだろうぜ。

康勝様の子孫は芦田って名字で福井藩に仕えた。

油揚げの次はおからとこんにゃくの和えものよ。

こいつも酒に合うんだぜ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/截蜻蛉-頼 山陽と本多忠勝-

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へえ、いい若えモンが寄ってたかって肉を食うのを「ばあべきゅう」っていうんですかい?奈穂子サン?

大多喜ですかい。

上総大多喜10万石は権現様の関東御討ち入りのときに本多平八郎忠勝様に与えられたんでさあ。

駿州遠州草皆腥し。

北軍人を殺して勢い建令。

一騎殿後して萬騎却く。

馬上の梨花蜻蛉を截る。

蜻蛉の州君が為に截る。

佳名兆を開く一丈の鐵。

北軍の鋒何ぞ折るに足らむ。

これは頼 山陽先生の「截蜻蛉」(とんぼきり)ってえ楽府詩(がふし)で、平八郎様のことを読んだ詩だ。平八郎様の槍の名前が「とんぼ切り」だった。だから詩の名前も「截蜻蛉」にしたんだ。

楽府詩ってえのはな奈穂子サン、音楽に合わせて口にする漢詩のことで、だから一行ごとの文字数が揃わねえんだ。でもよ奈穂子サン、山陽先生の楽府詩は本当に胸にジーンと来たり、ワクワクしたりする詩がいっぱいあるんだよ。

山陽先生は生前に『日本楽府』ってえ本を出版した。66の楽府詩を収めた本なんだがな、この本に「截蜻蛉」は最初収めるはずだったんだ。そしたらな奈穂子サン、出版前に検閲したヤクニンが底意地の悪いヤツでな。「当代に障る」ってえ言い出しやがって、「削れ」って山陽先生に言いやがった。

他にも「削れ」って言われた詩がいくつもあって、それを削って新しく書いた詩を加えて66の詩を収めた。

奈穂子サンの時代とオレたちの時代の決定的な違いはな、オレたちの時代には「表現の自由」が無かったってトコだ。

山陽先生の『日本楽府』はな、ヤマトタケルから太閤さんの朝鮮出兵までを66の詩でまとめたんだ。でもよ、本当はヤマトタケルからこの「截蜻蛉」までで66詩だったんだ。つまりは、オレたちの時代から10詩くらい作ったんだが、底意地悪いヤクニンが「削れ」って言って削らせた。

だからこの「截蜻蛉」の詩は山陽先生の生前は陽の目を見るこたァ無かった。だからこの詩は奈穂子サンへの「さーびす」だ。

幕府にとって都合の悪い書物は、みんな片っ端から「当代に障る」って言って発禁にした。これがオレたちの時代の「本の事情」なんだよ、奈穂子サン。覚えといてくんな。

さ、じゃ、晩メシの前に奈穂子サンにこの詩の注釈しとかねえとな。

この詩はな、長久手の戦いのときの平八郎様の活躍を楽府詩にしたんでさあ。

駿河遠江北軍(羽柴軍)が人殺しをしてる。そこに名槍「とんぼ切り」を携えた平八郎様が勇敢に戦う。そのサマを山陽先生は「佳名兆を開く一丈の鐵」って一行でまとめなすった。オレァシビレたぜ。で、結びの一行で羽柴軍の槍なんてわざわざへし折るほどのもんじゃねえってな。

へ?

何で槍の名前が「とんぼ切り」かって?

平八郎様の槍先は鋭さ抜群でな。あるときいくさ場で槍先にとんぼが止まったんだが、止まった瞬間とんぼが真っ二つに切れやがった。だから「とんぼ切り」っていうのよ。

オレの晩メシはさんまの塩焼きだ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/戸田忠真

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蕎麦は江戸前、うどんは上方。こいつァ昔っからそうなんだ。

でもよ、おでんは別だぜ。おでんはやっぱり江戸前よ。だから上方の連中もおでんのことを「かんとだき」(関東炊)って言うんだぜ。

千歳飴ですかい?

七五三が懐かしく思えるくらい、オレァジジイになっちまったからな。宇都宮の千歳飴、今度オレも齧ってみるか。

戸田山城守忠真様。

下野宇都宮7万石の御譜代だ。部屋住みの時分で寺社奉行になったくらいだからな、お上からの気に入られ方ってえのをよーく知っていなすったんだろう。

越後騒動で欠国(空白地)になった高田藩主に任命されたり、御譜代の重鎮にしか任されねえ佐倉藩主になったりもした。

佐倉藩主の頃に播磨赤穂の浅野様が吉良のジイサンやっちまって、浅野様の代わりに勅使接待を命ぜられたのが忠真様よ。

家継公の代に老中職におなりなすった。まあ、いろいろと「きゃりあ」を重ねたからな。老中職に就いて当たり前みてえなトコはあるわな。

家継公が死んで、吉宗公が紀州から八代様として江戸城に来た。吉宗公は八代様に就任早々、奈穂子サンの時代でいう「てすと」をおやりなすった。

「てすと」は吉宗公が老中職の面々に質問する形だった。「幕府の財布のゼニ(予算)はどんぐらいだ?」だとか「御城(江戸城)の櫓の数はいくつだ?」だとか「コメの備え(備蓄)はどんだけあるんだ?」だとか聴いた。

このとき、老中職の面々は5人いた。土屋相模守様、久世周防守様、井上河内守様、阿部豊後守様、そして戸田様だ。

で、「てすと」の結果は散々だった。土屋様以外の老中職の面々は、だあれも吉宗公の質問に答えらんねえ。「存じ奉らず」の連発よ。戸田様のおでこと背中は冷や汗でびっしょりだったぜ。

吉宗公は「てすと」のあとに「間部詮房なら、全部答えられるだろうに」って笑いながら言いなすった。間部詮房ってえ人は家宣公・家継公の側用人で、土屋様たちが吉宗公と結託して追い落としたお方よ。

老中職の面々は「今度の上様は手強い」って思った。居心地悪くなったんだ、役人根性の塊だったからな。

まず阿部様がさっさと辞職した。次に土屋様が年齢を理由に御勇退。その次に久世様が脳卒中、そのあと井上様が御病死。最後まで残ったのが戸田様よ。

「残った」ってよりも、「残してもらった」って言ったほうが正しいな。戸田様も吉宗公同様、綱吉公の「お気に入り」だ。吉宗公も「おまえはクビ」とは言いづらかったんだろうぜ。

まあでもアレだ、奈穂子サン。戸田様は同時代を生きた人たちからの評判は良かったんだぜ。

大根食って不味いおでん屋は話にならねえ。覚えといてくんな。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/稲葉正成

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こはだの冴えた青を見るとな、寿司好きで良かったなあと思うわけよ。

真岡にも綿の花が咲くんですかい、奈穂子サン?

真岡に藩が置かれたのは三回。

その三度目のお殿様が稲葉佐渡守正成様よ。

稲葉様はもともと美濃のお生まれでな、斉藤利三ってえ人の家来だった。この斉藤利三ってえ人はな、明智光秀重臣よ。

太閤さんが明智討ちをやったあと、ちょいと浪人するんだがな。しばらくして太閤さんに呼び出されて金吾中納言小早川秀秋)の家来になった。

金吾のヤツァ、あれァ奈穂子サンの時代でいう「バカ殿」だった。トンチキを通り越してた。で、この「バカ殿」の家を残すために権現様に内通して関ヶ原で寝返りやらせた。小早川家から見りゃあ忠臣だ。

金吾のヤツァ筑前名島から備前岡山に国替えになった。正成様も「バカ殿」と一緒に岡山に移った。で、ここで正成様はちょいと「おイタ」をしちまうんだな。

岡山で、カミさんの目ェ盗んでイロ(愛人)作っちまったんだ。

奈穂子サン、正成様のカミさんはな、例のあの春日の婆さん(春日局)なんだよ。

その、奈穂子サンには言いづれえんだがな、その…アレだ…正成様がイロと、その…してるトコにな、春日の婆さんが乗り込んで来てな、イロをブスリと刺して殺しちまった。

「このズベ公!」って髪振り乱して素っ裸のお姉ちゃんをメッタ刺しよ。怖え婆さんだぜ、まったく。

正成様は素っ裸で「オレが悪かった。許してくれ」って何べんも頭ァ下げてな。みっともねえったらありゃしねえ。いくさ場で敵に囲まれるよりおっかなかったんだろうぜ。ま、春日の婆さんの肝っ玉は大したもんだ。

岡山では金吾のヤツが罪の無え家来を突然打ち首にしたりするもんだから、正成様は嫌気が差してな。故郷の美濃に引っ込んじまった。あとはアレだ、イロのことがあって岡山に居づらくなったってえのもあるわな。

春日の婆さんが竹千代様(家光将軍)の乳母になると、正成様は春日の婆さんの「縁故」ってことで越後高田の松平忠昌様の付家老になって越後糸魚川2万石を与えられた。

忠昌様が越前福井50万石に栄転になると、正成様は「御役御免」になって幕府に呼び戻された。それで下野真岡2万石を与えられて御譜代になったってワケだ。

真岡藩は息子の正勝様が継いだんだかな、継いですぐに小田原に国替えになった。真岡藩は正勝様の代までで、あとは天領になった。

いわしの握りなんて、奈穂子サンにオススメだぜ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/宝永一揆・松波勘十郎一件

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今、「あいすくりん」を食ってるんだぜ、奈穂子サン。

「あいすくりん」は奈穂子サンの時代に「あいすくりーむ」って呼ばれてるヤツだ。

黒船のヤツらが横浜に「あいすくりん」を持ち込んでな。そんで江戸にも伝わったんだ。

水戸にこんな綺麗な萩の花が咲くんですかい。

水戸藩は、ちょいと他の藩と違うトコがあったんでさあ。水戸藩には参勤交代が無かった。殿様はずっと江戸にいるんだ。だから水戸藩主は「副将軍」って呼ばれたんだぜ。

こういうのを「定府」っていうんでさあ、奈穂子サン。「定府」は「じょうふ」って読むんだ。覚えといてくんな。

頼房様、光圀様、綱條様。江戸詰めが三代続きゃあ財政は火の車だ。江戸の物価は右肩上がりだからな。そこでだ、綱條様は財政建て直しの「すぺしゃりすと」を水戸に呼んだ。

松波勘十郎ってオッサンでな。この松浪のオッサンはもともと美濃加納の鶉村ってとこで生まれた。松波のオッサンは11歳のときに家を飛び出してな。以来流浪の生活を送ってたんだが、その流浪の中で財政の知識を身に付けた。美濃の天領の検地を皮切りにいろんな藩の財政建て直しに腕を振るった。

ちょいと強引なこともする「辣腕」だったんで、たま~に雇われた藩で揉め事になることもあったが、まあ松波のオッサンが行った藩は軒並み財政建て直しが上手くいった。その腕前を見込んで綱條様は松波のオッサンを水戸に呼んだのよ。

松波のオッサンは藩士の数を減らすことから始めた。次に代官をその土地のお百姓にやらせた。これはな、代官の給料を節約すんのとお百姓にやらせることで年貢に責任感を持たせんのと二つ意味があった。あとは商人いっぱい水戸に呼んで商いで財政を建て直そうとした。

で、これが命取りになったんだが、松波のオッサンはな、水戸の産物を江戸に船で直送して売り捌こうとした。それでお百姓を大量に使ってな、まずは那珂川利根川を繋ぐ運河を作ろうとした。河を掘るんだ。しんどい作業だぜ。耐えきれなくなったお百姓は一揆を起こした。「宝永一揆」ってヤツだ。

綱條様は一揆の責任は松波のオッサンにあるって言って松波のオッサンをとっ捕まえて牢屋にブチ込んだ。松波のオッサンは牢屋で死んだ。

やろうとしたことは間違っちゃいねえんだがな、ちょいと強引でせっかちだったな。

「あいすくりん」もいいけど、羊羹も好きだぜ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/宇都宮釣り天井事件

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桃栗三年、柿八年、梨の馬鹿めは十二年。

オレたち江戸っ子は口が悪りいからな。

弥七はさっきっから「うめえ、うめえ」って栗食ってやがるけどな、オレァつまみにならねえモンはああやってバクバク食ったりはしねえんだ。

栗は栗おこわにしめじの吸い物。秋だなあ、オイ。

その栗は宇都宮の栗ですかい、奈穂子サン?

そういやあ水戸のジイサンが助の字格の字連れて宇都宮に出掛けたな。

水戸のジイサン、例のあの「釣り天井事件」を調べ直すんだって、な。弥七は一足先に資料をジイサンに渡して今日はオレんちで栗バクバク食ってるってワケよ。

本多上野介正純様。

敵の多いお方でな。

本多様は大久保忠隣様と長年権力争いしててな。大坂の陣の少し前に大久保様を失脚させてケリをつけた。

そのあと、本多様は下野小山5万石から同じく下野の宇都宮に15万石で転封になった。御譜代が10万石も加増されるなんざ、まず無えこった。

いいかい奈穂子サン、徳川幕府のやり方ってえのはな、「権力者は安月給、窓際は高給取り」ってやり方だった。

だから加賀様(前田家)は100万石でも幕政(国政)に口を挟めねえし、3千石の旗本でも奉行職に就きゃあ幕政に口を挟めた。それで「百万石の外様より、三千石の直参」って言うんだぜ。

何でそんなやり方かって?

僻み、やっかみ。

人間ってヤツはどうしても僻んだりやっかんだりするモンなんだ。僻みやっかみから団結が損なわれる。権現様はそう見たんだろうなあ。苦労されたからな、権現様は。それで御譜代の方々は給料安~く抑えて、外様にゃ気前良くしたのよ。

この10万石加増の話が決まったときにな、それを聞いた柳生但馬守様(宗矩)が本多様に「今からでも遅くねえから御辞退しろ」って忠告したんだがな、でも本多様は下野宇都宮15万石を受けちまった。

本多様の親父の佐渡守正信様はな、死ぬ間際に「身代を大きくしようとするな。小身でいることこそが末永いしあわせぞ」って言い残してるんだ、奈穂子サン。これはな、遠回しに「アレもコレもと欲張るヤツァろくな死に方しねえぞ」って言ってるんだ。佐渡守様も権現様に負けねえくらい苦労したお人だ。だからこそ、徳川幕府最大権力者だったにも関わらず石高は相模玉縄1万石。奈穂子サンには信じられねえかも知んねえが、たったの1万石だった。

本多様は親父と違って苦労を知らねえ「えりーと」だったからな。だから周りの僻みやっかみに気付けねえまんま下野宇都宮15万石を受けちまったんだろうぜ。「もらって当たり前」ってな。

僻みやっかみが生み出した嘘八百の釣り天井。水戸のジイサン、どんな気持ちで宇都宮の栗かじってるんだろうな。

「もんぶらん」もいいんだけどな、オレァやっぱりどら焼きだ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/稲垣重富

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江戸は「煮アナゴ」なんだがな、ヨソの土地に行くと「焼アナゴ」なんてのがある。

ツメも江戸前に比べて甘いのが多いんだ。

オレァどっちも好きだぜ。

こりゃまたあたり一面キレイな向日葵だ。

下野烏山。

ここの藩主に稲垣対馬重富様って方がいなすった。

もともとは三河刈谷のお殿様でな、それが上総大多喜に転封になった。転封ってのはどんなお大名も嫌がるもんなんだ、家移りはゼニがかかるからな。

ところが大多喜に着いた重富様は「ここは狭くてイヤだ」って言って、たった20日で烏山に移った。変わったお殿様だぜ。

重富様は松の廊下のときに柳沢様(吉保)に「喧嘩は両成敗が基本」と面と向かって言ったお方でもあるんだ。

浅野様と吉良のジイサンの双方の言い分を聴いた目付の多門の旦那は若年寄重富様に「今一度、公平なお裁きをと上様に」って訴えた。

重富様も多門の旦那の言い分にも一理あると思って柳沢様んトコに行って「浅野どのだけ御処分というのは、喧嘩両成敗の原則から外れておりまする」と言った。

そしたら柳沢様は「上様の側用人たるワシの決めたことに不服があるのか」って言い返した。

そう言われちまったら重富様も引っ込むしかねえ。ま、でもよ、あの柳沢美濃守吉保に面と向かってモノ言ったんだから大したもんだな。

重富様は綱吉公の信任厚いお方でな、荻原重秀と京・長崎の経済視察を命じられたりもした。この経済視察は例のあのインチキ小判(元禄小判)の具合を見に行くためのものでな。こんなのは信用出来るのじゃねえと行かせられねえわな。

荻原重秀はこのインチキ小判を造った張本人だ。

いろいろと「えぴそーど」のあるお大名なんだよ、重富様は。

焼アナゴにわさびとかいわれを巻いて食うとイケるんだよ。アナゴはきゅうりばかりじゃねえんだぜ。

奈穂子サン、また。